【 FR(L)AG-ILE-MENT 】 ≪ アフレル 第3話 ≫


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阿佐宮さんを送って部屋に戻ってからも、まだ自分の中で驚きと共に彼女の真っ直ぐな気持ちが込められた言葉が鮮やかな響きを放っていた。
9歳もの年齢差なんて何の障害にも感じずに、軽やかに飛び越えて彼女は僕の心のまん前までやって来てしまった。
「強がることなんてしないで欲しい」って彼女は言った。僕の思ってること、考えてることを隠したりしないで聞かせて欲しい、彼女は知りたいって言っていた。
彼女の方がよっぽど色んなことを、ちゃんとしっかり考えてるじゃないかと思った。自分が恥ずかしかった。
自分の中の何処かで彼女をまだ子供だと決め付けることで、彼女への気持ちを踏みとどまらせようとしたかったのかも知れない。
でも彼女はそんな見え透いた僕の強がりなんて簡単に見抜いてしまっていた。
彼女はものすごく真っ直ぐな気持ちで伝えてきた。その彼女の気持ちに応えなきゃいけないって強く感じた。
もう誤魔化しなんかきかない。そんなことをしてる場合じゃなかった。阿佐宮さんがぶつけてきた真っ直ぐな想いを僕は受け止めなくちゃいけない。そして僕も僕の気持ちを真っ直ぐに彼女に届けなくちゃいけないんだ。
本当はずっと分かっていた。
気付いていたけど視界から反らして見ない振りをしていた。でも今はもう誤魔化しようもなく思う。
彼女が恋しかった。
彼女と出会ってからずっと、阿佐宮さんのこぼれるような微笑みに、彼女の優しさがいっぱいに詰まった甘い声に、僕は支えられていた。
痛みと共にまざまざと僕は知った。僕の方が彼女を必要としていた。
分かりきっているのに、僕は彼女に待っていて欲しいなんて言ってしまった。今更時間が経ったからってそれが何だと言うのだろう?
この期に及んでもまだ強がろうとする自分を感じた。そんな自分を振り払いたかった。
無様なくらい彼女を好きな自分を曝け出せたらどんなにいいだろう?
彼女を想って情けないほど怯えているこの気持ちを知ったら彼女は何て思うだろう?彼女に呆れられるかも知れない、情けないと白い目を向けられるかも知れない。そう考えただけで恐くなる。そして彼女の前で弱味を見せようとせず強がってばかりいる自分がいた。
でも彼女は言ってくれた。彼女の言葉を信じたかった。僕を知りたいと言ってくれた彼女の言葉を。
言葉が真実を映しているなんて思わない。うわべばかりの事の端に過ぎない。
それでも。
彼女の言葉は僕を勇気付けてくれる。彼女の声が、只の言葉であるものに特別な何かを与える。それはまるで魔法のように僕にとっての真実となる。僕を慰撫し、励まし、勇気付けてくれる。
彼女が纏う優しさ、温かさ、彼女の息遣い、彼女の香り、彼女の仕草、彼女の笑顔。彼女の全てが僕の支えとなる。
たまらない愛しさが僕を襲う。凶暴なまでの彼女への思慕が僕を駆り立てる。
自分の中で暴れ狂う感情に急き立てられ、咄嗟に僕の手は机に投げ出してあった携帯を掴み取っていた。

◆◆◆

何を言われても軽く受け流すあたしに、面白みを感じられず聖玲奈は白けた様子で間もなく部屋から出て行ってしまった。
今までどおり電話していいって言われて、佳原さんに電話をしたくて仕方なかったけど、時計を見るとまだ10時にはちょっと間があって躊躇われた。恨めしい思いでさっぱり進まない携帯の画面の時刻表示を睨んでいた。
突然手の中の携帯が震え、着信のメロディが鳴った。びっくりしながら携帯の画面に表示された相手を見て、もっとびっくりした。画面の表示は電話をかけてきたのが佳原さんだって知らせていた。
「もしもし?」
胸をどきどきさせながら電話の向こうに呼びかけた。
「もしもし?あの、佳原です」
「あ、はい。萌奈美です」
「あ、どうも・・・」
佳原さんの声はちょっとぎこちなく聞こえた。佳原さんに釣られて、あたしも何だかぎこちない気持ちになってしまった。
「どうしたんですか?」
佳原さんから電話をくれるなんて珍しくて、思わず訊ねてしまった。
「うん、ちょっと・・・」
佳原さんからの返事ははっきりしなかった。ちゃんと言ってくれないのかな?佳原さんの思ったり考えたりしていること、隠さずにあたしにも話して欲しいってお願いしたのに。ちょっと不満げな気持ちで思った。
別にそれが伝わってしまった訳じゃないとは思うんだけど。すぐに思い直したように佳原さんが言った。
「声が、聞きたくて」
その声は照れているみたいだった。
一方あたしも佳原さんの言葉に一人で顔を赤くして頭に血を昇らせていた。
え、え、えーっ?心の中で焦りまくっていた。だって!佳原さんがそんなこと言うなんて!
恥ずかしいやら嬉しいやらで自分でも何だかよく分かんない気持ちで一人舞い上がっていた。ううう・・・顔がにやけてしまうのを我慢できなかった。電話でよかった。こんな緩んだ顔を佳原さんに見られなくて。
そしてあたしからもちゃんと気持ちを返さなくちゃ、って思った。
「嬉しいです」
くすぐったい気持ちになりながら佳原さんに伝えた。
「あたしも佳原さんに電話したいなあって思ってたところだったんです。そうしたら佳原さんからかかって来てびっくりしちゃいました」
「そ、そう?」
弾んだ声で告げたら、電話の向こうで佳原さんの何だかどぎまぎした様子が感じられた。
ずきん。胸の疼きがまた大きくなった。
この胸から飛び出したくてわくわくしている気持ちをはっきりと感じ取っていた。
他愛もないことでも何でもとにかく佳原さんと沢山話したくて、自分から思いつくまま色んな話をした。学校で今日あったこと。今読んでいる本のこと。
帰りが遅くてママからさんざんお灸を据えられたことを話したら、自分の責任だって感じた佳原さんから何回も謝まられてしまった。そんなつもりは全然なかっ たので、慌てて佳原さんのせいじゃないし、あたしママのお灸なんて全然気になってませんから、って笑って話したら、佳原さんから「いや、それもどうかと思 うんだけど」って突っ込みを入れられてしまった。

話が途切れた時、電話越しに微かに音楽が流れているのが聞こえた。耳を澄ましてよく聞いてみたら『口笛』だった。
「『口笛』?」
「そう。よく分かったね」
訊ねたあたしに佳原さんは感心するように言った。でも声ははっきり分かるくらい嬉しそうな響きだった。
もちろん。心の中で得意げに胸を張った。もう何十回と聞いてるもん。だって佳原さんが大好きな曲だから。
「だって大好きな曲ですから」
もちろんあたしも大好きな曲だった。
電話越しに微かに届くメロディを聞きながら、心の中で歌詞を口ずさんで歌の情景を思い浮かべていた。
あたしも佳原さんとこの歌のようになれたらいいなって思った。
歌詞にあるみたいに、あたしも佳原さんと一緒にいると言葉より確かなものに届きそうな気がした。ずっと手を繋いだまま、どんな場面も二人だったら笑い合える、そんな二人になれたら素敵だなって思った。
遠い願いなんかじゃなくなってた。ほんの少し手を差し出せば佳原さんも手を差し伸べてくれて、あたし達は自然なままにそれが当たり前であるように手を繋ぐことができる。もうあとほんの少し、あたし達のすぐ傍までその未来は近づいて来てる。あたしには分かった。
「歌の優しい温かな情景が思い浮かんで来て、すごく温かくて優しい気持ちになるんです。『口笛』を聞くと。素敵だなあっていつも思います。この歌の二人みたいになれたらいいなって思ってるんです」
佳原さんと、とは流石に恥ずかしくてそこまでしか言えなかった。でももしかしたら佳原さん、気が付いてくれるかもって密かに期待しながら。
「そうだね」
答えた佳原さんの声が少し上ずっているように聞こえた気がしたのはあたしの考え過ぎ?
「僕も大好きなんだ。『口笛』」
もちろん佳原さんは曲のことを言ったんだけど、でも佳原さんが言った“大好き”っていう言葉に、あたしの心は過敏に反応せずにはいられなかった。佳原さん もあたしと同じ気持ちでいてくれているように思えて、どきどきと胸が異常に高鳴った。心臓の音が電話の向こうにも聞こえてしまうんじゃないかって思えるく らい、大きく響いている気がして焦った。
揺れ動く思いを押し隠しながら、ミスチルの曲の話で盛り上がった。あたしが全然思ってもいなかった曲に対するイメージや感想を佳原さんから聞いて新鮮な驚 きに触れたり、曲に対してあたしが感じているのと全く同じ気持ちを佳原さんも感じているのが分かって、あたしと佳原さんが同じ気持ちを共有してるって気が してすごく嬉しくなった。
ミスチルについて佳原さんと喋ってると話題が尽きることなんてないような気がした。

学校でのあたしはそれほど自分から話す方じゃなくて、はっきり言って聞き役に回ることが常だったので、自分でも自分のお喋りぶりに驚きながら、ふと気が付 いたら佳原さんと話し始めてからあっという間に二時間近くも経ってしまっていた。そんなに時間が経った感覚がなくって、ええっ、いつの間に?って思ったく らいだった。
「もうそろそろ寝ないと。明日学校でしょ?」
佳原さんに言われて渋々ながら「はい」って返事した。時計はもうすぐ午前零時を示そうとしていた。
「佳原さんはまだお仕事ですか?」
佳原さんから夜型だって聞いていたので訊ねた。
「うん、まあね。夜の方が集中しやすいっていうか、能率が上がる感じがするんだよね」
そうなんだ。あたしはどちらかと言えば夜遅いと眠くなってしまう方なので、その点では佳原さんと合わないことを少し淋しく感じた。
「お仕事頑張ってください。でもあんまり無理しないでくださいね」
あたしが励ましたら佳原さんから「ありがとう」ってお礼の言葉が返ってきた。嬉しそうな声だったので、あたしも嬉しくなった。
あまりいつまでも長話しているとお仕事の邪魔をしてしまうので、名残惜しく思いながらもあたしから電話を終えることにした。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
佳原さんの優しい声の響きを聞いて電話を切ることが躊躇われた。
「あのっ、明日またお邪魔しますから」
とってつけたように言ったら、電話の向こうで少しびっくりしたような間が空いた。
でもすぐに笑って佳原さんから返事が返ってきた。
「うん・・・」
「えっと、それじゃ、おやすみなさい」
「あ・・・!」
今度こそ電話を終えるつもりで言ったら、まるで扉が閉まりかかってる電車に飛び乗ってくるような感じで、佳原さんの声があたしの耳に滑り込んできた。
「待ってるよ。明日」
佳原さんの言葉を聞いた途端、あたしの胸がどきん、って一際大きく鳴り響いた。その一打ちで心臓の鼓動が停まってしまったみたいに、あたしはぴたりと動きを停止した。一瞬凍りついてたあたしは、すぐにたまらない嬉しさがじわじわと全身に伝わっていった。
「はいっ!」
とびきり弾んだ声で返事をした。たちまちこのまま一晩中だって起きていられそうなくらいのテンションに包まれた。
「じゃあ、おやすみ・・・」
言ってから気恥ずかしくなったのか、そそくさとした感じの佳原さんの言葉が届いた。
「はいっ、おやすみなさい」
嬉しさ120パーセント、ううん200パーセント、もう気持ちを計るメーターの針が振り切れるほどの元気な声で返事をした。
電話を終えてからも、しんと静まった部屋の中でも全然淋しくなかった。ほっこりした温かな優しさが心に広がって、幸せいっぱいだった。嬉しさがあたしの全 身を駆け巡って、とても眠れる状態じゃなかった。それでも一応ベッドに入ることにした。その前にヘッドフォンをつけて佳原さんから貰ったWALKMANに 入っているミスチルの曲をかけてから、部屋を暗くした。意識は冴えたままでまだ全然眠気を感じなかったけど、そっと瞼を閉じて耳元に響くミスチルの歌に聴 き入った。ミスチルの曲はしばしばあたしの今の気持ちにぴったり重なり合って、あたしはまた幸せな気持ちを募らせていた。
とても素敵な気持ちに包まれながらいつしか幸せな眠りに就くことができた。

◆◆◆

次の日学校に行くと、教室ですぐに橘くんに声をかけられた。
「昨日はどうしたの?突然」
あ!咄嗟に上ずった気持ちになった。
「あ、ごめん。ちょっと、ね」
曖昧な笑みを浮かべた。昨日のことを橘くんに説明する必要はないって思った。
はっきり言おうとしないあたしに橘くんは少し不満げな顔だった。
「何?どうしたの?」
あたしと橘くんが話しているところに結香が割り込んできた。橘くんと二人で話すのに気まずさを感じていたので、結香の登場に心の中でほっとしていた。
「ん、別に」
何でもないって素振りで答えた。
「何よ?何か怪しい」
結香が疑り深い眼差しであたしのことを凝視した。
「本当に別に何でもないよ」
あっさりとした様子のあたしを見て、結香はあれ?そうなの?と拍子抜けした表情を浮かべた。
「阿佐宮さん」
不意に橘くんに名前を呼ばれた。
「それで、ライブの件考えてくれた?」
躊躇いもせず、即座に返答した。ちょっとだけ心苦しく思いながら。
「あ、うん。ごめんなさい、あたし、行けない」
「えーっ?そうなの?」
反応したのは結香だった。思いっきり不満そうな声を上げた。
「ごめん。用事あるんだ」
結香に手を合わせて許しを求めた。
「用事って何?別の日にずらしたりとかできないの?」
今度は橘くんが口を開いた。
「ごめん、言いたくない」
気まずく感じながらも口を濁してばかりだった。
「何それ?萌奈美、やっぱり怪しい」
追求するように結香が顔を近づけて来てあたしの顔を覗き込んだ。
「ちょっと結香。やめなよ。本人が言いたくないって言ってるんだから」
話を聞いていたらしい千帆が入ってきて、結香をたしなめてくれた。
「そうだけどー」
結香が不服そうな顔で千帆に言い返した。
結香には心から申し訳なく思いながら、「ごめん」って繰り返した。
謝るあたしに結香はそれでもまだ何か言いたげな面持ちではあったけれど、それ以上追求したりはしなかった。
「橘くんもごめんね」
あたしが橘くんの方を向いて言うと、橘くんも気まずい雰囲気を漂わせながら黙ったままだった。

後になってあたしと千帆と春音と四人で昼休みに屋上に上がったとき、結香が不満そうに問い質してきた。
「何で断っちゃったの?勿体ない。橘くん、絶対萌奈美に気があるんだよ」
もしかしたらそうかも知れないってそれとなくは感じた。だから断ったに決まってる。
「いいじゃない、別に。萌奈美のことなんだから、結香がそんなに気にすることないでしょ」
今度もまた千帆が間に入るように結香を諌めてくれた。
「でも勿体ないと思わない?橘くん割とイケてると思うけどなあ。結構人気あるし」
「だったら結香が付き合えばいいじゃない」
つくづく惜しそうな顔で言う結香に千帆が事も無げに言い返した。
「あたしは別に・・・」
何故だか結香は焦ったような表情を浮かべてもごもごと口ごもった。
「じゃあ別にいいじゃない」
何か訳知り顔の千帆が結香を見てにやにやしながら言うと、それきり結香も少し怒ったように頬を膨らまして黙ってしまった。何だかその顔がちょっと赤らんでいるような気がして不思議に思った。
あたしの気持ちを知っているのは友達ではまだ春音と千帆の二人だけだった。結香には悪いと思ったけどまだ何となく言いづらかった。
「そう言うのは周りがとやかく言うことじゃないでしょ。結香だって分かってるよね?」
千帆が釘を刺すように結香に向かって言った。
ん?ちょっと意味深な千帆の言い方がひっかかった。
「そうだけどさー。萌奈美ってそういうの奥手だからさー、本人に任せておいたらいつまで経っても進展しないと思わない?」
結香はしみじみとした口調で告げた。
そんなことないもん。結香が知らないだけなんだから。お子様扱いされた気がして心の中で抗議した。
「それこそ余計なお世話。それに萌奈美が奥手かどうかなんてそんなの分からないわよ」
含みのある千帆の言葉に結香は眉を顰めた。
「どういう意味?」
えっ、ちょっと?千帆の態度に内心慌てずにいられなかった。結香にばれちゃうよ!必死に視線を送って千帆に訴えた。
「意外によっぽど萌奈美の方が結香やあたしより進んでるかもよ?」
含み笑いで千帆が言った。えーっ、何それ?胸の中であたふたした。
でもあたしの心配をよそに、結香は目をぱちくりとさせながら答えた。
「萌奈美に限ってそんな訳ないじゃない」
・・・それを聞いて、ほっとしたというか、むっとしたというか、複雑な心境だった。
くっくっと押し殺した笑い声が聞こえてきて振り返った。フェンスにもたれて結香と千帆の話に耳を欹(そばだ)てていた春音が、いつの間にやらフェンスに突っ伏すような姿勢で肩を震わせていた。
「春音、何笑ってんのよ」
思わず問い質した。
その途端、春音は笑いを堪(こら)えるのを止めて、あははっと声を立てて笑った。
そんな風に春音が笑うのを見て結香も千帆も呆気に取られて目を丸くしていた。
あたし一人、怒った顔でむーっと春音を睨みつけていた。
ちょっと!それでもあたしの「腹心の友」なのっ?親友が侮辱されてるのに何他人事みたいに面白がってんのよっ!心の中で幾つもの文句を言い立てた。
でも春音の様子がよっぽど意外だったのか、面食らった結香はそれきり橘くんの話を持ち出すことはなかった。これって結果オーライってこと?そうは思っても何だかイマイチ納得いかないような気がした。

◆◆◆

放課後になって逸る気持ちで学校を後にした。募る想いに急かされながら佳原さんの元へと向かった。
電車が武蔵浦和に近づくに連れてわくわくと心が躍った。
ねえ?早くしてくれないと、あたしそんなに待っていられないよ?もうキミの気持ちの端っこ掴まえちゃったんだから。もうこんな傍まで近づいちゃってるんだ から。早くしないとフライングしちゃうかも知れないよ?あたしの方からキミの心の中に飛び込んじゃうよ。ぎゅうっ!て抱きついちゃうよ。
あたしの中でいっぱいに溢れてるこの想いは、もういつ弾けちゃうのか全然あたしにも分かんないんだから。
だから急いでね。あたしの気持ちが爆発しちゃう前に、あたしのこと受け止めてね。お願いだよ。匠クン!
決して口にはできそうもない幾つもの言葉があたしの中で弾け回っていた。

駅の改札を抜けマンションまで繋がる歩行者デッキを脇目も振らず足早に通り抜けた。気持ちが弾んでゆっくり歩いてなんていられなかった。一分一秒、一瞬で も早く佳原さんに会いたかった。佳原さんの笑顔をこの瞳に映したかった。佳原さんの優しい声の響きでこの胸を満たしかった。
真夏の熱い風に吹かれているみたいな気がした。
体温よりも高い熱風に曝されて身体中の血液が沸騰しそうで、頭が真っ白になって、でもぼおっとした頭の片隅でその感覚をものすごく気持ちよく感じている。そんな感じに似ているような気がした。
胸を狂おしいまでに締め付けるこの愛しさ、恋しさ。何故なのかなんてそんなの自分でだって分からない。ただ傍に行きたかった。少しでも、一歩でも佳原さん の傍に近づきたかった。それでも傍にいるだけじゃじきに我慢できなくなる。きっと、その優しい温もりに触れていたくてたまらなくなる。
佳原さんが好き。色んな考えが巡ってぐちゃぐちゃに入り乱れた頭の中で、その想いだけが眩しく輝きを放って煌(きらめ)いていた。
 


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