【 FRAG-ILE-MENT 】 ≪ Sign ≫


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おやすみを言って携帯を切った。まだ耳元には彼女のくすくす笑う柔らかい声の響きが残っていた。
ふと時計に目を向けると深夜と言っていい時刻を示していた。彼女と話始めてから一時間近くが過ぎていた。自分がこんな長電話をするのは彼女とだけだった。いつもは用件を済ませるとすぐ様電話を終えるっていうのに。はあ。我ながら呆れて溜息が出る。
悩んでいる、というか、正直困っていると言ったほうが正解だった。自分の気持ちに。
頻繁に会いに来ることからも、また毎晩のように電話で長話をしていることからも、少なからず彼女が僕に好意を持ってくれているのは間違いないんじゃないかと思う。自惚れる訳ではないけれど。
・・・ただ、それが果たして恋愛感情なのかどうかという事になると、いまひとつ自信はなかった。或いは年上に対する憧れとか、そういう気持ちなんじゃないかと言われれば、そうかも知れないとも思ってしまう。
情けない話だけど、17歳の女の子から好かれる要因が自分には全く思い当たらないし。自慢じゃないが、生まれてこのかた女性に好意を寄せられるような経験は一度としてなかった。残念ながら。
だけど、僕の方はといえばこうして彼女と会って、話をして、彼女の笑顔を見る度に、彼女の笑い声を聞く度に、彼女の楽しそうな顔や嬉しそうな顔を見る度、 色んな表情を知る度に、確実に彼女への好意が・・・好意以上の気持ちがこの胸の中で膨らんでいるのを感じていた。彼女への想いがどんどん大きなものになっ ていくのが苦しかった。
でも、と思う。彼女とは年齢が9歳も離れている。十代の女の子からすれば、9歳年上の男なんてひょっとして「おじさん」の部類なんじゃないだろうか?そう思うと、この気持ちを持て余したまま、途方に暮れてしまう。
もし告白したとして、万が一彼女に怯えた声で「あたし、そんなつもりじゃありません」なんて答えられたりした日には、一体全体どうしたらいいんだろう、と臆病風に吹かれて身を竦(すく)ませた。
はあ、と又大きな溜息を無意識の内に吐いていた。
彼女と会うようになってから、この気持ちが胸の内に生じてから、溜息を吐く事が増えていた。
思えば、いつから彼女の事を想うようになっていたんだろう。
正直初めて彼女を見た時、僕は警戒した。自分に警鐘を鳴らした。確かに自分が描く少女に酷似している彼女を見たとき、その事実に目を瞠(みは)った。で も、それよりも彼女を見たとき、自分が彼女にすごく惹かれていってしまう予感に、気をつけろと言い聞かせたのだった。それなのに彼女は、そんなこちらの思 惑など預かり知らぬ素振りで、どんどんこちらに近づいて来て、僕の心の中へと入ってきた。最初の警告も空しく、僕はあっという間に彼女に惹かれ、その引力 に囚われた。もはや離脱不可能、完全に手遅れだった。
どうすればいいんだろう。
夜のしんとした空間に、今夜何度目かの溜息が漏れた。

◆◆◆

いつの間にかぼんやりとしていたらしい。肩を小突かれて我に帰った。
店内のざわめきが戻って来る。
隣に目を向けると九条が目を丸くしていた。
「何ぼんやりしてんだ?」
「いや・・・」素っ気無く答える。
「最近、ちょっと様子おかしいよな」
向かいの席の竹井が不審そうな眼差しで見ていた。敢えて聞こえない振りをしてその言葉を無視する。グラスに残っていたぬるいビールを飲み干す。
「匠、何飲む?すいませーん。」
伸夫がドリンクメニューを手に店員を呼んだ。
店は混んでいて店員はすぐに来そうもなかった。別にそれほど飲みたいって気分でもないので別にいいんだけど。
「んで?どうなのよ?」
九条が覗き込むように問いかけて来た。
「どうって、何が?」
鬱陶(うっとう)しくて思い切り眉間に皺を寄せた。
九条はふっふっふっ、と不敵な笑みを浮かべた。
「シラを切っても無駄だ。我々は既に確かな筋からの情報を入手している」
お前はどこぞの諜報機関のエージェントか?九条に思いっきり白い眼を向ける。
「ここ何週間かの君の行動には、明らかに不審な点が多く見受けられる」
・・・だから誰なんだお前は?
「まず第一に夜半の連日の電話。いつかけても午後10時過ぎには通話中であることが確認されている」
・・・うっ。内心の動揺を顔に出さないよう平静を装う。
「第二に君の部屋に毎日のように訪れる人物がいるとの情報を掴んでいる」
・・・何だと?一瞬気色ばむ。
ニヤリ。九条の口の端が歪む。
「更にその人物がセーラー服の女子高生であることも我々は既に突き止めている」
九条が言った内容に、一同に衝撃が走ったようだった。
「セーラー服?」「女子高生だと?」ざわめきが上がる。
って、二十台半ばの男ばっかり五人集まって、真剣な顔でセーラー服だの女子高生だのわめいてたら、かなり危ない連中という気がするが・・・事実、隣のテー ブルにいるOLと思しきグループは、険しい顔でこっちを振り向いていたぞ。何だかこっちのテーブルからじりじりと距離を取ろうとしているように見えるんだ が・・・。ただの気のせいか?
しかし、ちょっと待て。彼女が毎日のように部屋に来ていることを何故知っている?まさか本当に諜報部員よろしく連日張り込みしてた訳じゃあるまい。となれ ば情報の出所は一つしか思い当たらない。これだけの情報の漏洩は内通者がいることを示していた。内通者、即ちアイツしかいなかった。
そして、今になって僕は今日のこの飲み会の隠された真の目的を理解した。
「ちょっと待て」
押し殺した声で一同を制する。
じろりと九条を睨みつける。
「お前、確かな筋からの情報ってさっき言ったな?」
「ん?」
九条は何のことだと言わんばかりに白々しくとぼける。この野郎。
「麻耶か?」
「麻耶ちゃんがどうかしたか?」
とぼけやがって。
「匠、話をすりかえようとしても無駄だ」
漆原が厳しい眼差しを投げかけて来る。
「そうそう。今は匠に彼女が出来たかって聞いてんだから」
竹井が身も蓋もなく言う。
「で、実際の所はどうなの?そのコが匠の彼女なの?」
伸夫が屈託ない顔で聞いてくる。
伸夫、お前もか。さしずめブルータスに裏切られたカエサルの心境だった。
もちろん伸夫に悪気がないのは分かってる。大学時代のグループのメンバーで、伸夫だけは思いやりがあって親身になってくれるヤツだった。(他は九条を筆頭 に、自分の好奇心を最優先にするような、油断がならずつくづく信用の置けない連中だった)恐らく僕に彼女が出来たことが本当なら、心から喜びの意を表した いと思ってのことなんだろうけど、この場においてはそれが好奇心からであろうと、純粋な友情からであろうと大した違いは無かった。
そもそもが、未だ「彼女」ではない訳で・・・確かに毎晩のように電話で話してるし、週に何度も部屋に来てくれて、世間一般ではそのような状態は「彼女」以 外の何物でもないと言うのかもしれないけれど(そうでもないのか?仲のいい女友達ならそれ位あるのか?いまいち世間一般の感覚とかいうものからはずれてい るため、そこんとこがよく分からなかった)、でも未だに告白するなり打ち明けたりという何らの行動も起こしてない訳で、自分では未だ彼女のことを胸を張っ て「彼女」と呼べるだけのポジションを得ていないという自覚があった。
・・・ところで、彼女の方はどうなんだろう?

しかしながらこちらの長い沈黙を、勝手に「YES」と解釈した一同は気勢を上げた。
「やったな匠、苦節26年、ようやく春が巡って来たなあ」
「しかもセーラー服の女子高生とは!まさに九回裏ツーアウト、逆転サヨナラホーマーってヤツだよなあ」
「匠くんおめでとう!セーラー服バンザーイ!女子高生バンザーイ!」
だからっ!セーラー服とか女子高生とか大声で連呼すんなっつってんだろーが!
「何でよりによって、こんな愛想の欠片もない人付き合いもロクにできない、基本的社会生活能力の欠如したヤツに女子高生の彼女が出来るんだっ!世の中間違っとる!断固として俺は認めんっ!」
漆原が吼えた。お前にだけは基本的社会生活能力が欠如してるとか言われたくないわっ!
「乾杯しようぜ、乾杯!すいませーん。こっち生中6コね!」
「匠、絶対今度紹介してくれよな!」
勘違いしてはしゃぎまくる一同に頭を抱えたくなった。
隣のOLグループは漂白したような白い目で、ひたすらこっちに軽蔑の視線を送って来るし・・・

◆◆◆

勝手に盛り上がった一同は二軒目に突入して行った。出来れば逃亡を図りたかったが、今宵の酒の肴を逃がす筈もなく、逃亡を図った容疑者よろしく両腕を抱えられずるずると連行された。
ことあるごとに「彼女」じゃないといくら説いたところで酔っ払いに通じるはずも無く、「何照れてんだよ」と冷やかされるのがオチだった。
時間が気になって仕方なかった。今さっき腕時計を盗み見た時は午後10時5分だった。
唐突にすっくと立ち上がると「トイレ」と言い置いて席を離れた。
そそくさと席を立つのを九条が鋭く見咎め、「おー、愛の定時報告かー?」と大声で呼びかけて来やがった。あの野郎。後でコロス。
トイレに行く振りをして九条達に見られていない事を確認すると素早く店の外に出た。目立たないよう非常階段に身を潜め、携帯を開いた。実はさっきから携帯のバイブが着信を知らせていた。
「もしもし?」
「もしもし?佳原さん?萌奈美です」
彼女の甘い声が響いた。と言って、よく耳にする他の同年代の女の子のような甘えるような感じは全然なくて、むしろ彼女の話し方は落ち着いてしっかりしていた。なのに僕の耳に届く彼女の声は、まるで上質なシフォンケーキのように上品に甘くて柔らかかった。
いつの間にか彼女の声を聞くことが待ち遠しいものになっていた。彼女の甘美な声はまるで魔法のように僕を魅了し虜にした。
「こんばんは。今、大丈夫ですか?」
彼女は電話して来て必ずまずこう訊ねる。気配りのとても細やかな女の子だった。彼女のこんなところに好感を持っていた。
「うん。大丈夫」
彼女のほっとした気配が電話越しに伝わってくる。
「今、何してるんですか?」
「ん、友達と飲んでるとこ」
「えっ、じゃあ、電話してちゃマズイですよね?」
僕の返答に、彼女はうろたえていた。
「いや、ちっとも。どうでもいい連中だから」
半ば本気でそう答えた。
「えっ、そんなこと・・・」
何て答えていいのか戸惑い、彼女は口籠った。少し困らせてしまったようだ。
「阿佐宮さんは、何してたの?」
話題を変えて聞いてみる。
「え、あたしですか?」
不意に聞かれて少し言い淀んでから、彼女がふわりと答えた。
「ミスチル聴いてました」
少し耳を澄ましてみた。電話越しに微かに音楽が流れているのが聞こえた。もちろん聞き覚えがあった。
「Sign?」
「はい。そうです」
彼女は嬉しそうに答えた。彼女のにっこりと微笑んだ顔が目に浮かんだ。
彼女の声を聞いているだけで、彼女の色んな表情が浮かんできた。
「いま『I Love U』聴いてるんです」
「そうなんだ」
何とか平然と答える振りをしたけれど、一瞬息が止まりかけた。彼女の甘く囁くような声で「アイ ラブ ユー」なんて言われたら。
頭の中で慌てて変換を修正する。「I Love You」ではなく、『I Love U』と。自分に言い聞かせる。おい、勘違いすんなよ。ミスチルのアルバムのタイトルだぞ。
「電話してて大丈夫なんですか?」
だいぶ気にしているみたいだった。
「うん。全然。阿佐宮さんと話してた方が楽しいし」
これも本当のところだった。
「えっ」
でも阿佐宮さんの声はひどく狼狽していた。
多分今、電話の向こうで彼女は顔を赤らめて慌てふためいている。その光景が思い浮かんだ。その予想は僕に自信とか希望とかそういう気持ちを抱かせた。自分にも可能性があるのかも知れないと思えて。
思わず口から飛び出しそうになる。胸の中に苦しくなる位、はちきれそうな位に詰まった想い。
何かのはずみで、何時飛び出してしまうかもわからない時限爆弾のような想い。
君が好きです。
そして問いかけそうになる。
・・・君は僕を好き?
だけど、あと少しの勇気がなくて。
「アイ ラブ ユー」
唐突に告げて。
電話越しに彼女が息を呑むのが分かった。
「・・・ではどれが好き?」
君に聞けるのはこんなこと位。
「えっ?どれって、えーっ・・・」
彼女はやっと意味を理解して、びっくりして、慌てて誤魔化すように困惑したように大きな声を上げた。
この電話の向こう、真っ赤になった彼女の慌て振りが思い浮かんで、ついくっくっと忍び笑いを漏らしてしまう。してやったりと思った。さっきこっちの息を止めかけたお返しとばかりに。ってガキじゃあるまいし。
「・・・全部、好き」
少しして、彼女は恥ずかしそうに消え入るような声で答えた。
「その中で特にって言うと?」
「えーっ、本当に難しいんだけど・・・」
彼女は真剣に悩んでいるようだった。いや、そんな真剣に悩まなくても。
「・・・じゃあ佳原さんが好きなのは?」
しばらく悩んでた彼女は、そう切り返してきた。
「えっ、僕?」
「だってあたしだけじゃずるいもん。まず佳原さんの好きな曲を教えてください」
「うーん、そうだなあ・・・ってそう言えば『I Love U』にどんな曲入ってたっけ?」
僕が聞くと、彼女はアルバムに収録されている曲名を読み上げてくれた。
収録曲が分かって改めていざ考えてみると、これが結構悩ましかった。なるほど、彼女が迷うのも当然だ。
それでも好きな曲を絞り込んだ。
「やっぱり『Worlds end』はいいよね。それから『僕らの音』『靴ひも』『CANDY』でしょ」
僕が曲名を挙げていくのを、彼女はうん、うん、と相槌を打ちながら聞いている。
「あと、『Sign』と『and I love you』・・・って、多い?」
全13曲中の6曲は欲張りすぎか?と思った。
彼女は僕の問いかけには答えなかった。そして少し拗ねたように言った。
「佳原さん、ずるい」
「えっ?」
ありゃ?また「ずるい」と言われてしまった。でも、何でだ?
「だって、あたしの好きな曲全部言っちゃうんだもん」
彼女はちょっと悔しそうに、でも何処か嬉しそうに答えた。
「あ、そうだった?」
「うん。ぴったり同じですよ。なんかびっくりしちゃう」
携帯から聞こえる彼女の声が何だか弾んでいるように感じられた。
「でも、嬉しいかも」
えっ?彼女のぽつりと言った言葉に動揺した。
それってどういうこと?思わず聞き返そうとすると、それより早く彼女が続けた。
「こういうのって相性ばっちりってことでしょうか?」
彼女はとてもうきうきした声で言った。
いや、どうなんでしょうか?
そう思いながら、ふと、彼女の軽い調子には密かな緊張感が潜んでいることに気付いた。
そのことに気付いて、僕はまた戸惑う。それって僕を好きだから?だから、なのかな?
つい聞いてみたくなる。喉のところまで出掛かっていて、でも結局聞けなくて。
口から出るのは吹けば飛ぶような詰まらない軽口ばっかり。
「今度、占って貰ってみて」なんて。わざとらしくかわしてしまう。
「そうですね。今度占って貰います。分かったら報告しますね」
彼女の口調にはがっかりした響きが認められるだろうか?僕には分からなかった。
「うん。よろしく」
こうして僕はひょっとしたら彼女が出してくれた絶好のパスを、そのままスルーしてしまったのかも知れず。
お互いに秘めた気持ちを押し隠しながら探り合ってる、なんて僕の大きな勘違い?
「それで、佳原さんは何処が好きなんですか?」
内心もやもやとした思いを巡らしていると、唐突に彼女に聞かれた。
は?何を突然・・・そりゃ、数え切れない位好きなところはあって。優しいところ、真っ直ぐなところ、とても気持ちが温かいところ、とろけそうに甘い声、見てるだけでこっちまでほっこりと胸が温かくなる君の笑顔、etc、etc・・・
そんなことを頭で考えながらもたついている僕に、彼女はあっさりと聞き直した。
「今好きって言った曲の何処が好きなんですか?」
は?・・・何だ、曲の話だったのか・・・焦って損した。
「さっきは僕が答えたんだから、今度は阿佐宮さんが教えてよ」
「えーっ、そんなあ」
拍子抜けした気持ちで切り返すと、彼女は不満そうに嘆いた。
「僕ばっかり答えたんじゃ不公平でしょ?」
澄ました口調で僕がそう指摘すると、彼女は「うー」と唸ってみせた。・・・彼女の前世は犬なのかも知れない。
そして彼女は渋々といった感じで話し始めた。
「えっと、『Worlds end』はかっこいいし、それからミスチルの曲ってすごく映像的っていうか、聴いてて情景が思い浮かぶ曲が沢山あるんだけど、 この曲もすごくビジュアル感があるんですよね。歌詞で“分かってる 期限付きなんだろう 大抵は何でも 永遠が聞いて呆れる”、“僕らはきっと試されてる  どれくらいの強さで 明日を信じていけるのかを・・・多分 そうだよ”、“飲み込んで 吐き出すだけの 単純作業繰り返す自動販売機みたいに この街に ボーッと突っ立って そこにあることで誰かが特別喜ぶでもない でも僕が放つ明かりで 君の足下を照らしてみせるよ きっと きっと”、“何にも縛られ ちゃいない だけど僕ら繋がっている どんな世界の果てへも この確かな思いを連れて”ってフレーズがすごく好き」
いつしか彼女はとても熱っぽく語り始めた。僕は彼女の言葉に頷いた。
「“この確かな思いを連れて”って桜井さんが絶叫するように歌い終わってから、演奏がずっと続いて突然断ち切られるように終わるとこ、好きだな。」
僕がそう言うと、彼女も「うん、あたしもあの終わり方好き」と嬉しそうに言った。
彼女は他の曲についても、熱心に語ってくれた。
『僕らの音』は、桜井さんの歌い方っていうか、声が切なくてじーんってなります。“リズムやハーモニーがふっとずれてしまっても ゆっくり音を奏でよう  まだ イントロも終わってない”、“理論や知識にもとづいたものじゃなくても 信じた音を奏でよう 間違ってなんかない きっと正解もない これが僕らの 音”って歌詞、好きです。
携帯越しに届く彼女の声を間近に聞きながら、彼女がいつも見せる柔らかい笑顔が浮かんだ。自然と自分まで口元が綻びそうになる。
『靴ひも』もすごくビジュアル感に溢れてる曲ですよね。曲調も好きだし。“こだわってたものみんな 誰かに譲ったっていいや 失いたくない 急がなく ちゃ”、“スーパーの前の歩道に 主人を待つ雑種の犬 ガードレールに繋がれている 君に微笑んで欲しくて 吊り革握っている僕とどこか似ている そわそ わして”、“愛しくて 切なくて 君の色で 濁っている その部分が 今一番 好きな色 僕の色”ってフレーズが好きです。
そう言ってから彼女はふと疑問を口にした。
「好きな人と一緒にいるのって、“濁る”ってことなんでしょうか?よく好きな人の色に染まるって言ったりするけど、それって自分は“濁っている”んでしょうか?」
「うーん。どうなのかな?でも人を好きになる気持ちってきれいな部分ばかりじゃないよね?嫉妬したり、ずるかったり、悩んだり。素直で純粋な気持ちだけで はなくて、そういう部分も全部ひっくるめて相手を想う気持ちがあって、人を好きになるって言うのは綺麗なだけじゃなくて、それを“濁る”って言い表してる のかもね。それと色のアナロジーで言えば、『Any』でも“何度も手を加えた 汚れた自画像に ほら また12色の心で 好きな背景を描きたして行く”っ てフレーズあるよね。だから人を好きになったり、生きていくってことはきれいごとだけじゃなくて、綺麗な色のままではいられなくて、濁ったり、汚れてしま うもので、それは決して綺麗に消し去ることは出来ないものなんだけど、桜井さんはそれをネガティブなものとして捉えるんではなくて、濁ってしまっても汚れ てしまっても全部を抱きしめて歩いていこうよって言ってるのかも知れない」
僕は彼女の問いかけからそんなことを考えていた。
彼女は耳を澄ますように、僕の言葉を聞いているみたいだった。
「そっか」
彼女はひっそりと呟いた。
「あたしも、あたしの中の濁っているその部分って、とても大切で愛しいって思ってます」
彼女の言葉に思わず動揺していた。彼女の中の濁っている部分。彼女は誰の色で濁っているんだろう?
僕が彼女の言葉で激しく動揺していることなど気付かず、彼女はまた話し始める。
「『CANDY』もすごく切ない曲ですよね。何だか聞いてるとすごく感情移入しちゃうんですけど。ああ、この気持ちまるで同じだあ、って思っちゃいます」
正直、ぎくりとした。
“柄でもないけど 会えると嬉しいよ 悩んだ末に想いを飲み込む日々”
“みっともないけど すべてが愛しいよ ふと夕暮れに孤独が爆発する”
“やけに会いたくて 声が聞きたくなって みっともないけど すべてが愛しいよ ひとり夜更けに孤独が爆発する”
それはまさに僕自身の気持ちでもあった。
“ほろ苦いキャンディーが まだ胸のポケットにあった 気付かせたのは君”
・・・そう、大切なものを君は気付かせてくれる。忘れかけていた大切ななにか、無くしかけていた大切ななにか、君と一緒にいるとそれに気付けるんだ。
「・・・佳原さん?」
電話越しに彼女の声が呼び掛けていた。はっと我に帰った。
「あ、ごめん。何?」
「どうかしたんですか?」
心配そうな彼女の声が訊ねる。
「いや、別に。ちょっと」
上手い誤魔化しの言葉が見つからず妙に言い淀んでしまう。
不審そうな彼女の気配が伝わって来て、慌てて自分でもわざとらしいと感じつつ話題を転じる。
「あ、それで『Sign』は?どこが好き?」
「え、『Sign』ですか?」
唐突だったからか、彼女は少し面食らったようだった。それでもすぐに真剣に考え始めた。
「『Sign』の歌詞は好きなところだらけで、ここがって一部分を挙げられないです。もう、全部好き。」
「そうなんだ。そうだな、僕は“「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返して僕ら 人恋しさを積み木みたいに乗せてゆく”ってフレーズに惹かれるのと、“緑道の木漏れ日が君にあたって揺れる”って転調するトコが好きだな」
「あ、そこのトコ、あたしもすごく好きです。そこってすごく映像的ですよね。情景がすごい目に浮かぶっていうか」
僕が自分の意見を伝えると、彼女も嬉しそうな口調で同意してくれた。
「うん。僕もそう思う」
「『Sign』はミスチルの曲の中でも、あたしかなり好きな一曲です」
本当に嬉しそうな様子が電話の向こうから伝わってくる。何だかこっちまで微笑ましい気持ちになる。
僕はつい余計な意地悪を言いたくなる。
「『and I love you』とでは、どっちが好き?」
彼女は途端に「あーっ」と声を上げた。
「それって意地悪ですよ。どっちもすごく好きな曲なんだから、較べるなんて絶対無理!」
彼女の抗議に、つい可笑しくて喉の奥で笑いを漏らしてしまう。
「もーっ、佳原さんの意地悪」
笑い声が聞こえてしまい、彼女を怒らせてしまった。おっと、まずい。
「ごめん、ごめん」
素直に謝る。自分のキャラとは思えないな、と内心思いながら。いつもの皮肉屋で気遣いの欠片も無い自分がすっかり影を潜めている。彼女といると何でこんなにも素直で穏やかになれるんだろう?自分でも不思議だった。
「じゃあ」彼女はまだ不機嫌そうな口調で提案した。
「佳原さんの『and I love you』の好きなところを教えてください」
「え、僕の?」
「そうです。意地悪言った罰です」
彼女はつんとした口調で言った。やれやれ。
「うーんと、そうだなあ」
少し考えてみる。
「“傷付け合う為じゃなく 僕らは出会ったって言い切れるかなぁ? 今 分かる答えはひとつ ただひとつ”ってトコと“もう一人きりじゃ飛べない 君が僕 を軽くしてるから 今ならきっと照れないで 歌える 歌える 歌える”ってトコが好きだな。それに“未来がまた一つ ほらまた一つ 僕らに近づいてる”っ てトコもいいな。あとファルセットで“I love you and I love you”って歌うサビのトコはぐっと来るね」
言いながら、歌のフレーズでならこんなにも簡単に繰り返し口に出して言うことが出来るのが不思議だった。
「うん」
同感と言わんばかりに彼女の強い相槌が聞こえた。
「歌全体がすごく優しさに満ちていて、すごくいいなあって思う。聞いていて、とても優しくて温かい気持ちになれるんですよね。何度聞いても全然気持ちが色褪せないっていうか、何度聞いても、すごく大好きな曲です」
全くその通りだった。
「うん。僕もすごく好きな曲だよ。ミスチルの曲で特に好きな曲のひとつだな」
「本当に?」
彼女は声を弾ませる。
「ミスチルのMyFavoriteランキング作ったら、実際作るとしたらすごく悩みまくって難しいだろうけど、それでも多分ベストファイブに入るだろうな」
「あっ、あたしもそうかも」
彼女は嬉しそうに、強調するように繰り返した。
「やっぱり、あたし達って相性バッチリなんですよ」
彼女のいうとおり僕と彼女はまるで前もって示し合わせたように、ぴったりと意見が合った。以心伝心とでもいうように、好みとか嗜好とかが一致していて・・・
それがとても自然なことであるかのように彼女に惹かれ、寄り添っていたくなる。
「あっ」
唐突に彼女が声を上げた。
「どうしたの?」
何か大事な用事でも思い出したんだろうか?
「佳原さん、いまお友達と一緒なんですよね?」
彼女に言われるまで自分でもすっかり忘れていた。
「あの、皆さん待ってるんじゃないですか?」
おろおろした口調で彼女は心配そうに言った。
こっちは連中のことなど、別に大して気にも留めてはいなかったんだけど。でも時計を見るとかれこれ40分が経過している。彼女は明日も学校があるし、あんまり長電話しても迷惑をかけてしまうと思った。
「ん、それは大丈夫だけど。でも、もう遅いしね」
僕がそう告げると、「そうですよね」と彼女が相槌を打った。その声が何となく寂しげに聞こえるのは自惚れが過ぎるか?
「じゃあ、おやすみ」
自分の気持ちを断ち切るかのように告げる。
「はい。おやすみなさい」
彼女の声が答える。
何となく切り難くて、思わず追い縋るように口を開いていた。
「あのさ」
「はい?」
電話を終えようとしていたところに声を掛けられ、彼女は少し驚いたように返事をした。
「・・・明日は、来るの?」
来て欲しい、とは言えず。何とも曖昧な聞き方をしてしまう。
「え、あの・・・駄目、ですか?」
彼女は明日は都合が悪いと受け取ったみたいだった。おずおずとした声で聞き返された。
慌てて訂正する。「いや、全然。駄目じゃないよ。いや、その、単に明日も来てくれるのかな、と思って聞いただけで。全然OKだよ」
みっともない位にうろたえながら言い改めていた。
言ってからたった今自分の口を突いて出た言葉に、ぎくりとした。自分の迂闊さに冷や汗が流れる。
一方、彼女はほっとしたみたいだった。
「あ、はい。あの、お邪魔します」
はにかむような声で彼女は答えた。
「そ、そう」
内心の動揺を隠し切れず、どぎまぎと答える。彼女は気付いてしまっただろうか?
「明日も来てくれるのかな、と思って」って、そりゃお前、来てくれるのを待ってますって、そういうことだろう?内心心待ちにしてるのをバラしてる以外の何物でもないだろう?自分の間抜けさに落ち込んだ。
「じゃあ、また、明日。おやすみ」
暗澹たる気持ちになりながら、辛うじて彼女にそう告げる。
「はい。おやすみなさい」
答える彼女の声はうきうきとしたものに聞こえたような気がした。ただの気のせいだったかも知れないけれど。

◆◆◆

電話を切って、携帯を閉じる。
胸がどきどきするのを抑えられなかった。聞き間違いじゃないよね?もう一度佳原さんと交わした言葉を思い出してみる。
佳原さんは間違いなく言ったよね?「明日も来てくれるのかな、と思って」って。あんまりびっくりして信じられなくて、嬉しくて、イマイチ自分の耳で聞いたことを信じ切れなかった。
だって!「明日も来てくれるのかな、と思って」って、それってつまり、あたしが行くのを待っていてくれてるっことだよね?楽しみにしてくれてるってことだよね?
心の何処かで、自分の逸る気持ちの勘違いなんじゃないの?って思いながら、でももう一方でそんな慎重論に耳を貸さず、はしゃぎまくっている自分がいて。
佳原さんからあんな言葉が聞けるなんて、本当に信じられなかった。頑張ってパスを送り続けてた甲斐があったのかな?電話からはなかなか気付く素振りを感じられなかったけど、ちゃんと気付いてくれてたのかな?
ねえ、信じていいのかな?自分の直感を。佳原さんがあたしのことを好きでいてくれてるって、信じていいのかな?
いつも佳原さんは優しくて、佳原さんと一緒にいると楽しくて、佳原さんと一緒に過ごす時間が大切で、掛け替えがなくて、それを失うのが怖くて、つい臆病に なってしまう。気持ちを確かめることに怖気づいてしまう。失うくらいなら今のままでいられたらそれでいいって思ってしまう。
本当はそれじゃもう全然足りないのに。あたしの中の想いはそれだけじゃ我慢できなくなってるのに。
だから、信じてもいいのかな?佳原さんが言ったこと。あれは佳原さんの本当の気持ちだって信じてもいいのかな?
あたしのことを、待っていてくれてるって。
それを信じられたら、言える気がする。佳原さんにあたしの気持ちを伝える勇気が持てる気がする。
あたしの中の、切なくて、不安で、寂しくて、苦しくて、でも、恋しくて、愛しくて、濁っているその部分は、佳原さんの色なんだって。

◆◆◆

40分以上もフケてから席に戻ると、案の定激しい詰問を受ける羽目になった。
曰く「今迄何やってた?」「どうせ噂の女子高生との甘い会話にすっかり時間が経つの失念してたんだろう?」「一人だけそんな幸せは断じて許せん」云々・・・まあ、どうせ半ば以上バレているんだから今更気にすることはない。ふてぶてしくシラを切り通した。
黙秘を貫いたその結果、二軒目の支払いを全額払わされるペナルティを負うことにはなったけれど。痛い出費ではあったが、まあそれ位は仕方ないかと諦めた。
別れ際、九条がのたまった。
「今日はこれぐらいで勘弁しといてやるけど、次回は絶対その噂の彼女を紹介して貰うからな。覚悟しとけよ」
そんな話は聞こえぬ振りで知らん顔をして済ませたものの、そりゃ「彼女」と呼べる間柄であれば会わせることもやぶさかではないが、残念なことに「彼女」ではない以上呑めない要求だった。

11時過ぎの埼京線の下り電車は結構な混み具合だった。遅くまで仕事で残ってて帰宅する会社員もいるのだろうけど、目に付くのは赤い顔でご機嫌な様子の酔 客の姿だった。デート帰りらしきカップルもいて二人してアルコールが入っているのか、周りの目など全く意に介さずに睦まじく寄り添い、囁き合っている。自 分の気持ちを持て余している身としては羨ましい限りだ。・・・こんなこと以前なら、彼女に出会う前だったら絶対思わなかったことだった。我が身の不甲斐な さに思わず深く嘆息する。
ドア付近に佇んで窓の外の暗闇をぼんやりと見ながら、WALKMANでミスチルの『B-SIDE』を聴いていた。
今聴いていて初めて気が付いたけど、今の自分のことか?って思うような曲が幾つかあって驚いていた。一曲目の『君の事以外は 何も考えられない』からし て、“君の事以外は 何も考えられない いつもそばにいてよ いつまでも そばにいるよ”“こうして二人で いられる時は 不思議だね 一日が すぐに過 ぎてく”なんてモロそのまんまな心境だし、『また会えるかな』では“また会えるかな また会えるかな ほら僕は君が気になりだした”ってすごいぴったりハ マルんですけど。本当、この歌みたく、“曖昧模糊とした表現なんて 金輪際とっぱらって 君と二人愛を語り めくるめくの世界へ”なんて、願わくは彼女と のそんな日々が訪れる事を祈りたかった。
いかん、段々身につまされて女々しい気分になってきた。

彼女は僕の失言に気付いてしまっただろうか?
あの時。迂闊に口から出た言葉。「明日も来てくれるのかな」なんて。・・・やっぱり気付くよな。
いや別に気付いて貰っても構わないんだけど。でも気持ちを伝えるならあんな婉曲に伝えるんじゃなくて、きちんと伝えたいって思う訳で、あんなんで気付いて くれたらいいななんて思ってるような姑息な奴だと思われたくないだけで。・・・なんてうだうだ考えてる時点で十分姑息でヘタレな奴に他ならないか。
別に虚勢を張る必要はないじゃないか。虚勢を張ったって、そんな急場凌ぎのメッキ加工はすぐ剥がれ落ちるに決まってるんだから。
情けなくたって、みっともなくたって、ありのままの気持ちを伝えられたらと思う。
大人気なくたって、格好悪くたって、ただ単純な気持ちを伝えられたらいい。
そう思いながらもつい見栄を張ってしまう。彼女に実物以上の自分と思われたくて。ありのままの自分を見せる勇気がなくて。
もう少し勇気を持てたら・・・
あの時、彼女はパスを送ってくれていたのかな?好きな曲が二人でピッタリ同じ事がわかって「嬉しい」って言ってくれたこと。僕達の「相性がバッチリ」だっ て言ってくれたこと。今思い返してみて、改めてあれは絶妙のキラーパスだったんじゃないだろうか?彼女が精一杯の勇気を振り絞って送ってくれた・・・そう だとしたら、それをみすみすスルーした自分を呪ってやりたかった。今更嘆いたところで全ては遅い訳だけれど・・・

いや、まだ、手遅れって訳じゃない。
彼女が送ってくれたサインをちゃんと受け止めたら、今度は僕が彼女に送り返さなくちゃならない。歌のフレーズに潜ませたりしないで、自分の言葉で彼女に伝えなくちゃならない。
and I love you。
僕も 君が 好きです と。

ほんの少し、勇気を持てるような気がした。彼女が送ってくれたサインを思い出しながら。
また、ああ、と思った。そうだ、『Sign』だ。

“君が見せる仕草 僕に向けられてるサイン”
“君が見せる仕草 僕を強くさせるサイン”

そして思った。歌のように、そうできればと願いながら。

“もう 何ひとつ見落とさない そうやって暮らしてゆこう そんなことを考えている”
 


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