【 FR(L)AG-ILE-MENT 】 ≪ The Picture 第10話 ≫


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翌日のあたしの頭の中は低気圧だった。
別に低血圧って訳じゃないし、頭が痛い訳でもなかった。要するに寝不足だった。
これが恋心に胸が苦しくて夜も眠れなくてとかっていうんだったら乙女チックなんだけど、生憎その原因はほぼ徹夜に近い読書によるものだった。まあ、これも 恋に起因してるって言えなくもないけど、充血して赤い眼と寝不足でボーッとした頭で歩く足取りも覚束なければ、とても恋する乙女とは程遠い有様だった。
結局、昨日の夜は殆ど眠れなくて、一晩かけて『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読み終えてしまった。
読み進める程に面白くて、佳原さんが大好きな一冊っていうだけあって、期待に違わぬ作品だった。あたしにとっても出会えたことを感謝したくなる、大好きな一冊になった。
佳原さんにとって大切な一冊であるってことが、あたしにとってこの本を特別で掛け替えのない存在にした。

気を抜くと閉じそうになる瞼を必死に開けて睡魔と闘いながら、朝食を食べ、電車に乗って、学校へ行った。
自分の机に座ると何度か意識が遠くなりかけた。充血した寝不足の眼を見開いて、必死に襲い来る眠気に耐えていたら、結香(ゆうか)と千帆がやって来た。
「何、血走った眼で睨みつけてんの?恐いんだけど」
余りな言われようだった。ムッとして口を尖らせた。
「失礼ね、寝不足なの」
「それはまた、どうして?」
結香はまだ主(あるじ)の来ていないあたしの前の席に勝手に座りながら聞いた。人の席に図々しく座るようなことは気が引けるのか、千帆は佇んだままだった。
「小説読み始めたら、すごく面白くて、途中でやめられなくなっちゃって」
結香は大して興味もなさそうに「ふーん、そうなんだ」って相槌を打った。
「なんていう小説?」
「庄司薫さんの『赤頭巾ちゃん気をつけて』っていう本」
千帆の問いかけにあたしが教えると、結香から「知らない」って即答が返って来た。そして「知ってる?」って結香が千帆に向かって訊ねて、千帆も「ううん、知らない」って首を振り返した。
あたしは一人胸の中で得意げな気持ちだった。多分、学校の殆どの生徒が知らないんじゃないかって思った。あたしと同年代の人のどれだけがこの作品を知っているだろう?
あたしと佳原さんとが大好きな、大切な一冊。あたしにとって特別な、秘密にしておきたいって思う宝物の一冊。
あたしの口元は何気に緩んでいたらしい。結香が気味悪そうに言った。
「なに、にやにやしてんの?気色わる」
・・・大きなお世話だ。ふと見ると千帆も苦笑していた。

午前中の悪魔の誘惑の如き睡魔との闘いを終えて、お昼休みになった。
結香達と学食で昼食を食べて教室に戻ったあたしはみんなに読みたい本があるからと断って、自席に座り鞄から本を取り出した。
佳原さんから借りた『夜は短し歩けよ乙女』を読み始める。
読み初めこそ少し独特でやや時代がかったような言葉遣いに戸惑ったけど、じきに物語に引き込まれていった。
「萌奈美、何読んでんの?」
顔を上げると春音(はるね)が立っていた。春音とは二年になってクラスが別になってしまったけど、それでもよく相手のクラスに遊びに行っていた。って言っ ても、あたしの方は違うクラスの教室に入ることに気後れを感じてしまうので、春音があたしのクラスを訪れる方が圧倒的に多いんだけど。
あたしは持っていた文庫本の表紙を春音に見せながら答えた。
「『夜は短し歩けよ乙女』っていう小説」
「あ、それタイトル知ってる。まだ読んだ事ないけど。面白い?」
春音はこの作品を知っていた。結構有名なのかな?そういえば「本屋大賞」で2位になったことがあるって佳原さんも言ってたっけ。
「あたしもさっき読み始めたところなんだけど、面白いよ」間髪入れずに頷いた。
「ふうん、じゃあ、読み終わったら貸して」
あたしが即答したので春音も食指を動かされたらしかった。
あたし達は自分が読んで面白かった小説や良かった本を、お互いに教え合って読んだりしていた。そうして出会うことのできた本は沢山あった。
もっとも、あたしが春音に教えてあげた本より、春音から教えてもらった本の数のほうが圧倒的に多いんだけどね。
と言うのも、あたしは本を読むのももちろん好きだけど、どっちかって言うと自分で物語を書く方が好きなので、あまり沢山の作家を知ってる訳ではなかったからだった。
一方、春音は自分には創作の才能が欠けていて、将来は批評や評論の道に進みたいって言っていて、そのために今までとてつもない数の本を読んで来ていた。他 にもインターネット上で本の批評や紹介をおこなっているサイトを見たり、作家や本に関する情報や知識を広げることにも熱心だった。人前では何かに打ち込ん だり熱意を傾ける姿を決して見せたりせず冷めてる性格に見られがちの春音だけど、あたしにだけは本に対する情熱を語ってくれるし、将来の夢のために努力を 惜しまない姿をあたしには隠さずに見せてくれる。
せっかくの親友の願いを聞いてあげられなくて申し訳ない気持ちになった。
「ごめんね、あたしもこれ借りてる本なんだ」
「あ、そうなんだ。図書室?」
聞かれて頭(かぶり)を振った。
「ううん、え、と・・・人から貸してもらったの」ちょっと言いよどんだ。
時計を見たらまだ昼休みが終わるまで20分あった。少し迷ってから本にしおりを挟んで閉じた。
「春音、あの、ちょっと付き合ってくれる?」
改まった口調で言うあたしに、ちょっと怪訝な表情を浮かべたものの春音は頷いてくれた。

あたしと春音は併設の中学校校舎の二階にある、中庭に面したベランダに設けられたビオトープに足を運んでいた。
ここにはいくつかベンチも設けられていて、天気のいい日は生徒達の絶好の休憩場所になっていた。あたしもこの場所がお気に入りだった。
あたし達の他にも何人かの女子生徒がベンチに腰掛けて楽しそうに話していた。
あたし達は空いていたベンチに並んで座った。
春音は誘ったあたしが口を開くのを待っていた。あたしも話を切り出そうって思いながら、でもいざとなるとどう話せばいいのか分からなくなってしまった。
しばらくの間、明るい昼下がりの青空の下、あたし達の座ったベンチだけが沈黙でひっそりとしていた。あたしは迷いながらもとりあえず、話し始めることにした。
「え、と、あのね・・・」
春音は口を結んだまま真っ直ぐにあたしを見つめて、あたしの言葉を待っている。
春音は気安く笑ったりしない。愛想笑いとかしない。その場の雰囲気を和ませようとして口元に笑みを浮かべたりもしない。自信がなくてすぐ愛想笑いで誤魔化してしまおうとするあたしとは、まるで正反対だった。
春音と向き合うにはいつも少し真剣さが必要だった。春音の真剣さに接して、その鋭さに気持ちが少し怯んだ。そのおもねらない性格に決して親しい友達が多い 方じゃなかったし、自分に厳しい分人にも厳しい性格で、そんな春音を敬遠する人がいることも事実だった。でも春音はいつも真剣に向き合ってくれる。痛いく らいの真摯さで、いつも応えてくれる。あたしが書いたものを読んでいつも真剣に評価してくれた。彼女の真摯なそれ故に鋭い批評を聞いて、打たれ弱いあたし はすぐに胸の中でしょげてしまうんだけど、でも春音の言葉はあたしの中の深いところに届いた。あたしはそんな春音を信頼していた。
「昨日、佳原さんが学校に来たけど」
「うん」それは彼女も知っているところだった。
「あたしが帰る時、佳原さんも丁度帰るところで校門の近くでばったり会ったの・・・」
春音は昨日用事があって先に下校してしまったから、あたしが佳原さんに送って貰ったことを知らなかった。
「あたしが佳原さんの絵を持って帰ろうとしてて、あたしの大変そうな様子を見かねて、佳原さん車で送ってくれたの」
「へえ」
その展開に春音は驚いたみたいで、少し目を瞠(みは)った。
多分、あたしが親しくもない男の人の車に乗って帰ったっていうのが意外だったのかも知れない。普段のあたしだったら絶対に断ったはずだろうから。
「それで、送って貰う途中で佳原さんの妹さんから電話がかかってきて、佳原さんのマンションに行く事になって、それで夕食もご馳走になることになって・・・」
昨日の経緯(いきさつ)を話しながら、要領よくかいつまんで話して伝えるのが結構難しい事に気がついた。
「・・・佳原さんのお部屋を見せてもらって、その時、佳原さんが仕事している部屋も見せて貰えて、その部屋の本棚にあった本を何冊か貸してもらったの」
この説明で果たして春音は理解できただろうか?春音の鋭敏で優れた読解力と推察力に期待した。どうかちゃんと伝わっていますように!
春音は彼女にしては珍しく、かなり驚いているみたいだった。と言うのも、彼女は同い年とは思えないほど落ち着いた性格で、滅多に驚いたり慌てたりしないのだ。
恐らく、人見知りで消極的な性格のあたしが、知り合ったばかりの男の人と初めて顔を会わせたその日の内に、他にも人がいたとはいえ部屋を訪れ、夕飯を一緒 に食べ、本まで借りて、最後には車で家まで送って貰って、それだけ色んな出来事があったっていう事実に衝撃を受けているんじゃないだろうか。
「ええと、それで・・・」
落ち着きなく視線を泳がせた。春音に打ち明けようって決めて一緒について来て貰ったのに、いざ核心に触れるときになって恥ずかしさに躊躇っていた。
こんな時春音は決して助け舟を出してはくれない。気持ちを察して彼女の方から「つまり、こういうことでしょ?」って導いてはくれない。それは本人の口から伝えられなければいけないことだから。春音はそれまで我慢強く待っていてくれる。
あたしは春音のそういう性格を思い起こして、やっと打ち明ける決心をした。
「・・・春音に言おうと思ってたことは・・・あたし、佳原さんが・・・」
意を決してみたものの、なかなか言えない言葉があった。
「・・・気になる・・・」
そう言ってから、それはやはり誤魔化しているんだって思った。
「・・・ううん、あたし、佳原さんが・・・佳原さんのことが・・・す、好き、なんだと思う」
それも正しくない。あたしはあたしの気持ちを知っているんだから。まだ、よく分からないんじゃない。もう、自分の気持ちがはっきり分かってる。
「・・・思ってるんじゃなくて・・・佳原さんが、好き、なの」
最後の方は消え入りそうな声になってしまった。ちゃんと春音に聞こえただろうか。
春音はあたしを見つめたまま、頷いた。ちゃんと分かってるよ、っていう風に。
「うん、多分そうなんだろうなって思ってた」
「え、いつから・・・?」
春音の言葉に今度はあたしが目を瞠った。それって、いつから分かってたの?
「あの絵を見つけた時から、萌奈美にしてはやけに積極的だなって思った」
思い起こすように春音は言った。
「あの絵を描いた人のことを熱心に調べたり、分かったら今度は早速電話してたし。いつもの萌奈美とは違ってた」
・・・いつものあたしからすると、あの時のあたしの行動は、周囲からはやっぱりちょっと奇異に見えてたんだろうか?
「ただ、一度も会っていない人を好きになったりなんてこと、あるのかなって思って。それで今イチ確信を持てないでいたんだけど」
やっぱり春音はよく見ているし、あたしのことをよく分かってるって思った。それともあたしの方が分かり易過ぎるんだろうか?
「・・・うん、多分、そう。・・・多分、本当に会う前から、あの絵を見た時から、あたし、佳原さんを好きになってたんだと思う・・・」
あの絵を初めて見た時の気持ちを思い出していた。あたしはあの絵を一目見たときから恋に落ちたんだ。あの絵を通して、佳原さんを好きになったんだ。
そう思ってふと気になった。
「そういうのって変?」
あたしは今まで異性を好きになったことがない。いわゆる「恋愛感情」っていうのを一度も感じたことがなかった。だから、自分の佳原さんへの気持ちについて はほんの僅かな疑問を差し挟む余地もないくらい自信を持ってるけど、果たしてそれが一般的な恋愛感情なのかどうかっていう点については今ひとつ自信が持て なかった。
「変かどうかっていうのはよく分からないな。どういうのが変じゃない・・・いわば「普通」の恋愛なのか、「普通」じゃないのか、なんてそんなの分かんないんじゃない?」
春音の言葉にあたしはほっとした。
「うん・・・」
自分の気持ちを探るように、言葉を選びながら話した。
「あたし、男の人を、あの、異性として好きになったのって、あの、恋?するの、って初めてだから、なんか、自分でも戸惑ってたり、舞い上がっちゃって、収拾つかなくなってるんだけど・・・でも自分の気持ちは間違ってないって思う」
「ふうん」
あたしには珍しい位はっきりしたその口調に、春音は感嘆するような声を漏らした。春音の口元が柔らかく微笑んでいた。
「だから、初めてのあたしの、その気持ちを、春音に伝えておきたかったの」
そう締めくくった。
「うん、わかった。話してくれてありがとう」
春音の声は本当に嬉しそうだった。あたしも嬉しくて笑顔を浮かべた。そして、話し終えて気持ちがとても軽くなった。すると途端に言葉がスラスラ口をついて出た。
「でもね、あたしと佳原さん、9歳も齢(とし)、離れてるんだよね」
これは結構高いハードルなんじゃないのかなって感じていた。佳原さんの目には、あたしなんかまだまだ子供にしか映らないんじゃないのかな?
「それは、別に大丈夫なんじゃないの?」
あたしの不安を吹き飛ばすように、いとも容易く春音は答えた。
「あたし達から見ると20代の人ってすごく大人で、すごい年齢差を感じるかも知れないけど、でも別に10歳差の夫婦なんて、世の中にはザラにいるんじゃないの?」
「そうかなぁ・・・」
あたしからすれば、あたしと佳原さんの距離をどうやって縮めていこうか、それを考えて途方に暮れそうになる。
涼しい風が吹き抜けていき、あたし達はその心地よさに浸った。あたしと春音は親密な沈黙に包まれていた。
「ま、何はともあれ、とりあえずおめでとうって言っとくね。萌奈美の初恋に」
春音は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
あたしは赤くなりながら「ありがとう」とだけ言った。
五時限目の授業の予鈴が鳴った。他のベンチに座っていた生徒達が一斉に立ち上がる。あたし達も立ち上がった。
教室に戻る途中の廊下で春音に話しかけた。
「それでね、あたし、これから部活出られない日があるかも知れない」
春音はあたしの言いたいことが分からないみたいで「は?」って声を上げて振り向いた。
「・・・今日も出られない、と思う」
春音の機嫌を損なわないか不安に感じながらあたしは話を続けた。
 


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